2015年8月21日金曜日

 割烹開花の閉店 千野慎一郎

 割烹開花の閉店 千野慎一郎
沼津の老舗料理店が、また姿を消します。創業百二十余年の割烹開花が八月末日をもつて閉店します。長年、沼津の食文化・お座敷文化を支えてきた老舗の廃業は時代の流れとは言え、一市民として、また、現在の建物建設に関わった一人として寂しい限りです。
開花の創業は明治二十六年頃と聞いています。当時の沼津の町は明治二十二年の東海道線開通・沼津駅開設と二十六年の沼津御用邸の造営により会国的に保養地としての名を広め、商業の町としても着実に発展していました。
平成二年発行の沼津料理組合百年史によると、明治二十七年に沼津料理飲食業組合が設立され、開花初代の杉山吉太郎氏が役員に名を連ねています。
また、明治三十四年発行の「沼津の華」の中で沼津の全商店を紹介した沼津繁昌記には開花楼として詳しく紹介されています。
その中の概要ですが、当時の開花は下本町の浅間神社北側にあり、宏壮優美な和風二階建で楼上からは北に富士山、南に浅間神社越しに干本松原を望み、料理は食材の魚介野菜が新鮮で味が良く低廉で、女中の応待も良く昼夜繁昌していた、と記載されています。
開花のあった本町付近は、大正から昭和前期にかけての沼津の中心街で劇場や寄席小屋、数多くの料理店、飲食店、カフェーが軒を並べ、芸妓置屋や芸妓見番もある花街の中心でもありました。
組合役員名簿によると、大正五年に初代杉山吉太郎氏が組合長に就任。十五年には、二代目の杉山龍吉氏が副組合長に、さらに昭和四年には商工会議所議員に当選し、二代にわたり組合活動に尽刀されています。
昭和二十年七月の沼津大空襲で市域の半分以上が焼き尽くされ、大正の大火では被災を逃れた開花も焼失しました。
戦後の混乱期を過ぎた二十六年に現在の旭町に移転し開業します。二十八年に二代目龍吉民の急逝により、現店主の杉山文一氏が修業先より戻り、二十代の若さで三代目を引き継ぎます。
文一氏は店を順調に発展させる一方で、新たに発足した沼津料理店営業組合胃年部員としても大きな貢献をされ、昭和五十三年二月には区画整理事業に合わせて待望の新店舗を竣工させました。築三十七年を過ぎた現在でも維持管理が良く、和風三層の凛とした風格を保っています。
時代も平成に移り、急速にライフスタイルや食文化の変化が進み、多くの料理店が店を閉めたり業態を変えたりしていきました。
古いものや伝統への関心、愛着が希薄な沼津の中で、伝統的なスタイルで地道に暖簾を守ってきた開花の閉店は沼津のお座敷文化の終焉と言っても過言ではありません。
終わりに開花の建物の処分はまだ決まっていないようですが、何らかの形で活用されてほしいと願っています。(建築士、宮本)
【沼朝平成27年8月21日(金)言いたいほうだい】

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