2022年5月20日金曜日

220515江原素六生誕180周年・没後100周年記念祭式典as (沼朝記事加筆)


 近代沼津の礎築いた江原素六

 生誕180年、没後100年で式典

 沼津にとっての大恩人へ江原素六翁。あす519日は翁100回目の命日、と同時に180回目の生誕日。天保13(1842)519日に生まれ、大正11(1922)519日に他界した、生没月日が同じという稀有な生涯。幕末・維新の大変革期、歩んだ人生は波乱に富むが、その中で終の住みかに選んだ沼津に多大な足跡と功績を残した。その翁の遺徳を偲び、感謝の意を表す「江原素六生誕180周年・没後100周年記念祭式典」が15日、プラサヴェルデコンベンションホヨルAで開かれた。各方面、各分野からの参列者の中、追悼の言葉などが述べられたが、会場の注目を集めたのは、生前の翁が歩く様子を捉えた「生きた江原素六」の姿だった。式典終了後は会場を沼津駅北口広場に移し、市内3体目となる翁の像の除幕が行われた。

 貴重な翁生前の動画上映

 沼津駅北口広場に3体目の像

 記念祭は例年、519日に近い日曜日、西熊堂の江原素六先生記念公園で開かれ、続いての献茶式で江原翁の銅像に新茶を捧げているが、この2年間は新型コロナウイルス感染拡大防止のため多人数の出席を求めることができず、駿河台の江原家墓所で江原素六先生顕彰会(土屋新一会長)の役員、会員らで献花する程度に縮小して行われていた。このため、記念祭自体が3年ぶりの開催となった。

 式典は、飛龍高和太鼓部の演奏で幕開け。開会の後、式典実行委員会委員長の土屋顕彰会会長の式辞、川勝平太知事、頼重秀一市長らが翁への追憶の言葉を述べた後、壇上の翁の写真の前への献花が行われた。

 続いて、記念事業として江原記念公園の銅像、明治史料館の胸像に続く翁の像が沼津駅北口に建立されたことが紹介された後、静岡市出身の講談師、田辺鶴遊師が講談「江原素六伝」を演じ、幼少時から沼津移住までの翁の半生を楽しく、分かりやすく伝えた。

 また、西高芸術科書道専攻の4人がステージで、翁の座右の銘「克己制欲」を一字ずつ書き上げる書道パフォーマンスを披露。立てた面への揮毫と難しさが要求される中での見事な動きに会場からは大きな拍手が送られた。

 さらに、翁が創設した麻布学園麻布中・高の平秀明校長が「江原素六と私たち」と題し、翁の生い立ちを話し、翁の人物像については「誠」「清」「聖」「政」「青」「生」の6文字を挙げて、誠を尽くした一生、清貧に甘んじたつましい生活、政治家として世のために働き、青年達の友としてあった姿など六つの「せい」で言い表した。

 圧巻だったのは、翁の生前、歩く姿を撮影した動画。ライオンの創業者、小林富次郎が亡くなった際の葬列で棺を載せた馬車のすぐ横を歩く69歳の翁の姿が映し出されている。このフィルムは歴史資料として国の重要文化財になっている。

 式典は、この後、翁の曾孫で麻布学園理事の江原素有氏が江原家謝辞を述べ、最後に顕彰会の佐藤孝行副会長が閉式の辞を述べた。

 この中で佐藤副会長は「静岡県には偉人が2人いる。西の金原明善、東の江原素六。金原明善は信玄堤を造った武田信玄と並び、天竜川の治水で知られるが、江原翁は、もう一つだ。きょうの日を契機に翁について、もっと発信していきたい」などと思いを語った。

 場所を移して行われた銅像の除幕は、川勝知事、頼重市長と、来賓に像を制作した彫刻家の堤直美氏、台座に揮毫した周智郡森町出身の書家、杭迫柏樹氏に麻布中学の生徒へ、翁にゆかりの地元の小学生らも参加して行われた。

 この後、沼津茶業振興協議会による像への献茶式。川勝知事をはじめ来賓らが献茶した。

 ◇

 江原翁は沼津のため、産業、教育、宗教など多方面にわたって尽力、足跡を残し、とりわけ官有地・御料地の愛鷹山払い下げに傾注して実現させ、その恩恵は沼津にとどまらず近隣市町に及び、また、それによって沼津の茶業の礎を築くなど今なお関係方面だけでなく多くの人の尊敬と感謝の的となっている。

 翁は徳川幕府御家人の家に生まれたが、御家人とは名ばかりの貧苦の中に幼一少期を過ごした。それでも家計を助ける中で勉学の道をあきらめることはなく、また翁の才を見出して支援の手を差し延べる人もあり、当時最高の教育機関だった昌平黌(しようへいこう=昌平坂学問所)に学び、出仕すると頭角を現し始める。

 しかし、幕末・維新の動乱期の中で十分に力を発揮できないまま、やむをえない事情から一時は官軍と戦い、大けがを負って身を隠すなど賊軍として逃げなければならない立場に置かれる。

 ところが、ここでも翁の優秀さを知る人(式典で行われた講談では勝海舟の名が挙がった)の計らいで許され、駿河に移封となった徳川家に参じるが、自分が静岡にいたのでは迷惑がかかるからと沼津に居を構えることにし、以後、沼津を拠点とした活躍が始まる。(後、中央での仕事が増え、在京の時間が増える) 沼津では、幕府時代に構想した陸軍学問所を念頭に沼津兵学校の創立にかかわったが、新しい日本を築くため、軍学だけでなく西洋の近代的学問も積極的に取り入れるとともに、武士に限らず生徒を受け入れ、優秀な人材が集まった。

 教育界では、静岡師範学校や沼津中学校(現在の沼津東高につながる旧制沼中とは別)の校長を務めるなど教育界における活躍も多岐にわたり、東京では麻布中学校を創設。現在は中・高校一貫の全国有数の進学校となっている。

 さらに、教育の重要性を説いて、男子にとどまらず女子教育のために私立の駿東女学校を創設。後に郡立女学校から県立沼津高等女学校となり、現在の沼津西高となる。男尊女卑思想の強い時代にあって、今で言うならジェンダーフリーを実践した先覚者でもあった。

 一方、若い頃に学んだのは儒教であり朱子学だったが、明治10(1877)には洗礼を受けキリスト者となり、末広町に教会を設立するとともに、熱心な伝道者にもなった。

 また、俸禄を失った士族のためでもあったが殖産にも腐心し、各分野の産業興隆にも心血を注いだが、この分野では実るものは多くはなかったようだ。

 名誉も金銭もなく、ただ一心に沼津のため、地元のためにと働く翁の姿に、納税資格が必要な初めての衆院議員選挙に推され、お金がないからと固辞するも支援者があり、出馬して当選。連続して衆院議員を務め、後に東京市から出馬して当選し、1912(明治45・大正元)年には貴族院議員に勅撰された。 各方面、各分野で功績を残した翁は、とりわけ青少年の教育に熱心で、亡くなる直前の516日には麻布中学の遠足に同行して箱根に一泊。翌日、生徒達より先に帰京し、翌18日は、いくつかの会議に出席。最後の会議で頭痛を訴えて自宅に戻り、翌19日、脳溢血のため、当時としては長命と言える80年を一期(いちご)として旅立った。高齢者の生き方としても範となるような最期だったと言えるかも知れない。

【沼朝2022(令和4)518(水曜日) 20714号】


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