2012年12月7日金曜日

「ロシアが日本を 沼津を救う」(下)大海祥


「ロシアが日本を 沼津を救う」(下)
 大海祥
 沼津とロシア歴史と友好イベントで観光町おこし
 ここまで話が進むと、勘のいい方は気がついたかもしれない。沼津には戸田があり、戸田にはディアナ号、ヘダ号という、日本とロシアにとって絶対的な友好の材料がある。ロシアと民間レベルの友好を図る場合、これほどの材料は国内にはないと断言できる。
 プチャーチン(ロシア海軍元帥・提督)は一八五四年十一月、ペリーに遅れること四カ月、日本との通商を求め、二〇〇〇トンのディアナ号で来航、地震津波により乗船が下田で大破し、回航中、富士海岸沖で沈没。乗員約五百人を救出するために三津、我入道、千本浜の漁師達を中心に男女千人が協力し合ったという。
 この間のことはロシア側の資料にも残り、日本人の勇気と優しさを称賛し、感謝する言葉に溢れ、帰国したプチャーチンは後に、自分の死後、現在の日本円にして数百万円を戸田に遺贈するよう言い残し、感謝を伝えているほどである。
 ロシア人達は海岸伝いに徒歩で戸田へ向かった。当時の戸田の人口は約三千人だそうで、そこへに五百人が同居したのだから大変だったろう。韮山の江川代官も、この人達の世話をする指揮にあたったという。
 また、ロシア人達が帰還するのにあたって戸田の船大工達が活躍したのだが、これが後の日本の近代造船技術習得に大いに役立つことにもなった。彼らの帰国に使われたヘダ号の建造には千本松原の松が用いられたそうだ。
 ディアナ号沈没からヘダ号による帰国まで一年弱の間は想像するに、幕末における一つの叙事詩と言ってよいものだったろう。今でも在日ロシア大使館との間で友好行事が行われているという話を以前聞いたことがあるが最新の状況は分からない。
 しかし、これだけ具体的な材料の揃った歴史的にも実証されている出来事が市内に存在したというのは大変貴重なことだと思う。市レベルの行事に格上げし、歴史・友好行事を市の大きな観光要素・資源にしてほしいと願う。
 戸田には東大の寮があり、地元の人達と共同で毎年、マラソン大会を実施していると聞く。「沼津・ロシア歴史友好マラソン大会」と銘を打ち直してもよいのでは。
 ウラジオストク市は函館、新潟、秋田と姉妹都市になっているが、太平洋岸の温暖な沼津市、それもプチャーチンゆかりの地であれば喜んで姉妹都市に賛同するのでは、と思う。沼津市民でも詳しいことの顛禾はご存じないだろう。おそらくロシアの人達もそうであろう。
 沼津ロシア歴史友好のプロジェクト簡略
 ①沼津ロシア歴史友好週間の制定、姉妹都市の選定締結。再来年はデイアナ号海難一六〇周年である。ここに向けて計画を立てていく。
 最初は沼津が勝手に行うくらいの心でもよい。徐々にマスコミに流れていく。
 ②年一回、記念マラソンあるいはウォークラリーの実施。戸田をスタートし、大瀬岬を通って沼津駅前をゴールに。
 ③在日ロシア人、ロシア大使館、東大生などに広報PR。ノーボスチ通信、イズベスチャなどロシア通信機関に広報する。日本国内より、むしろロシア国内から話題になるような戦略で。
 ④プロジェクト・リーダーは新卒で入った市役所職員と市内ボランティアが担当。広告代理店などには依頼しない。
 ⑤いずれ沼津産品を輸出。寿太郎みかんは、ひょっとすると大うけする。
 ところで、トルコは大変な親日国であるが、それは、ディァナ号の海難事故から三十年後の明治二十三年、トルコ軍艦エルトゥール号が和歌山県串本沖で海難事故にあった際、約六百人の人命が失われたが、六十九人は地元の漁師達に救助されたことによる。この日本人の誠心誠意にトルコの人達は感謝し、今でも教科害にそのことを記述し、日本に感謝するというお国柄である。
 ディアナ号のことは、その出来事の重大さの割に語られないし評価が低い。大河ドラマや映画になってもよいと思うほどである。沼津にだけ存在する大変貴重な歴史なので、超党派で観光、町おこしに使っていただきたいと思う。日露関係にも大きな一石を投じることにもなり、間違いなく沼津は有名になるのでは、と思っている。(おわり)(沼津市出身、埼玉県在住)
《沼朝平成24126()号寄稿》

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