2015年7月2日木曜日

ああ高尾山古墳ー保存すべき貴重な文化財ー 小野眞一

ああ高尾山古墳
 ー保存すべき貴重な文化財ー 小野眞一
 高尾山古墳の最初の発見者であり、その名付け親でもある小野眞一氏から、同古墳に対する思い入れ深い投稿が寄せられた。小野氏は昭和四年生まれ。富士市在住。加藤学園考古学研究所所長を長く務めたほか、常葉短大教授、日本考古学協会理事などを歴任。沼津市内の埋蔵文化財に対する造詣が深い。
 最近、沼津市内北部の史跡「高尾山古墳」に関する報道が盛んに行われ、破壊や保存を巡る論戦が高まっている。
 そこで、小生も大きな関心を持ち、ここに一筆を記することにした。
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 まず、この古墳の所在地であるが、拙著『目で見る沼津市の歴史』(昭和五十三年、緑星社刊)に記されているとおり、愛鷹山地の低台地にあり、現在の沼津市東熊堂地域の北辺に存在している。
 この古墳の「発見」は昭和四十年代。当時、加藤学園考古学研究所に勤務し、県東部高校郷土研究連盟(十九校加盟)の顧問をしていた小生が、友人の笹津海祥師(妙海寺先代、故人)と共に、東名高速道路建設に伴う愛鷹山地の遺跡踏査中、偶然見つけたものだった。
 そして、前掲の『目で見る沼津市の歴史』に、当地方屈指の古代墳墓として発表した次第である。
 早速、当地の地主達が所有していた『金岡地区地図帳』に見られる大字(おおあざ)東熊堂の中にある小字の「辻畑(つじばたけ)」が古墳所在地に該当すると思い「辻畑古墳」とも記したが、実際には、その傍らの高尾山穂見神社の境内地であることから、拙著では「高尾山古墳」として修正した。
 この「高尾山」の名称は、立地が小「高」い「尾」根上にあるため生まれたもので、南麓の集落から仰ぎ見られる高所に由来している。
 また、墳丘が南方に低く傾斜する尾根上にあり、方形であったため、当初は方墳(四角い古墳)として拙著に掲載した。しかし、平成二十年に始まった都市計画道路沼津南一色線の建設工事のために穂見神社の移転工事も行われ、その調査の中で方形墳丘の南側に一段低い前方部が発見され、前方後方墳であることが判明した。
 その規模は南北前長六二㍍、南側の前方部の東西幅約二四㍍、北側の後方部の幅約三五㍍と判明し、後方部の盛り土の高さは約四㍍と推定された。しかも、後方部の頂上には被葬者を埋納した主体部があり、低い前方部は祭祀場であった。
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 次に年代であるが、主体部をはじめ、周溝(古墳を囲む溝)から多く出土した土器類は、廻間(はさま)式と呼ばれる古い素焼きの土師器(はじき)で、国内で広く分布し、また北陸や近江(滋賀)系の土器が見られ、これらの地との交流の様子が知られるようで
ある。
 この他、鉄鏃(てつぞく=矢の鉄製の先端部分)をはじめ、槍などの鉄製武器や、装身具の勾玉(まがたま)などが出土しており、これらを納めた木棺跡には青銅製の鏡(獣帯鏡)も存在していた。
 以上のことから、この高尾山古墳の築造は西暦二三〇年説、すなわち三世紀前半代のものと推定されている。
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 中国の史書『漢書』地理志によると、一世紀から三世紀にかけての日本の国土は「分かれて百余国をなす」とあり、多数の小国家が分立していた。『後漢書』東夷伝には、その中の「奴()」と呼ばれる国の国王が西暦五七年と一〇七年に使者を後漢(当時の中国を支配していた王朝)に送り、光武帝から印綬(いんじゅ=印鑑と専用のひも)を授与されている。そして、この金印が江戸時代に博多湾の志賀島(しかのしま)から発見され、それには「漢委()奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻印されている。
 後漢は三世紀の初頭に滅亡し、続いて魏()、呉()、蜀(しょく)の三国時代に移行したが、その魏国の史書『魏志』に含まれる「倭人伝」によると、一世紀後半には倭国(わこく=日本)に大乱が起き、三世紀後半に倭国の卑弥呼(ひみこ)という女性が諸国より推されて女王になったと記されている。
 その国は邪馬台国(やまたいこく)と言われ、約三〇の小国を支配していた。そして西暦二一二九年に卑弥呼は魏の皇帝に使者を送り、親魏倭王(しんぎわおう)の称号と銅鎮百枚などを下賜れたが、やがて死去し大きな塚(直径百余歩大古墳)が築造されたという。
 現在、高尾山古墳は築造が二三〇年頃、埋葬が二五〇年頃と推測され、日本国内最古級のものと考えられているが、これは卑弥呼の墓と言われる奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳とほぼ同時代である。
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 奈良県天理市の黒塚古墳(推定全長約一三〇㍍)、京都府木津川市の椿井(つばい)大塚山古墳(推定全長約一八〇㍍)も、ほぼ同じ頃の古墳と見られ、いずれも三角縁神獣鏡(銅鏡)が三十面以上出土し、箸墓古墳と並ぶ前方後円墳であることが知られている。
 これらは畿内をはじめ、全国各地に分布する首長級の墳墓で、古代の近畿を支配した大和政権の本拠地から諸国へ伝播(でんぱ)した。この時期は大和政権による国土統一が進行した時期で、文献史上では大和時代、考古学上では古墳時代と呼ばれている。
 そして、その中期(四世紀から五世紀)には履中(りちゅう)天皇、応神天皇、仁徳天皇の日本三大古墳も見られ、特に仁徳陵は全長四八六㍍の世界最大のものとして知られている。
 沼津市内では、古墳時代前・中期の大型古墳として、松長の神明塚古墳前方後円墳)、中沢田の大中寺裏の道尾塚(どおつか)古墳(形状不明、一角縁神獣鏡出土)が知られている。
 続く六世紀から七世紀にかけての古墳時代後期の市内大型古墳としては、東沢田の長塚古墳(前方後円墳)、西沢田の子ノ神(ねのかみ)古墳(前方後円墳)が知られている。
 七世紀中葉の西暦六四五年には、ほぼ全国が統一され、大化改新となり、珠流河(するが)国は富士川から大井川までの庵原(いおはら)国や伊豆国と共に駿河国となった。その後、伊豆国は、また分離した。
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 こうした長い歴史の中で、古墳時代最古の古墳として存在した沼津市の高尾山古墳を考えると、その出土品と共に貴重な文化財として、復原かつ永久に残すべきではなかろうか。それが今、風前の灯になったのは残念至極。その復原費用は大であろうが、沼津を中心に私のような富士市民、さらには静岡県民からの協力も含めて、未来永劫、子々孫々に保存しようではないか。

【沼朝平成2772()投稿記事】

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